西本願寺と東本願寺の違いを大特集!歴史をベースに細かく解説するよ
西本願寺と東本願寺って、同じ本願寺なのにどうして2つあるのかご存知ですか。
それでもって、本願寺って全国各地にあるって知ってます?
例えば、築地本願寺。築地は移転時に大騒ぎでしたけど、築地場外そばにある大きな寺院です。
この、西や東や頭に何もついてない本願寺の関係っていったいどうなっているんでしょうと言う疑問から、そのままにしておくと、他に手が付かなくなってしまいどうなので、この違いは何かということに焦点を当てて調べてみました。
すると、その始まりは、私の好きなあの時代にあったことがわかったんです。
是非是非、お立ち寄りになって一緒に見ていってくださいね!
西本願寺と東本願寺の歴史と違いは?
私の好きな時代は戦国時代なんです。あの苛烈で勇猛果敢な織田信長の活躍する時代ですね。そこに、西本願寺と東本願寺が生まれる原因があったんです。
西本願寺と東本願寺の歴史
石山合戦における和睦派と抗戦派によるものが原因。
和睦派の顕如と准如は石山を退去し、後に、顕如は豊臣秀吉から七条堀川に土地の寄進を受け、御影堂と阿弥陀堂を建築、これが西本願寺となった。
抗戦派の教如は徳川家康に接近し、七条烏丸に寺の寄進を受け、これが東本願寺となった。
通称として「(地名)本願寺」が使用されている各派の「本願寺別院」は西本願寺か東本願寺に属していますので要確認ですね。
ウーム、織田信長と石山本願寺の戦いは10年も続いたんですよね。
織田信長と石山本願寺の和睦が原因で、後に、西本願寺と東本願寺ができたんですね。もう少し、詳しく見ていきましょう。
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石山合戦終了
織田信長からの攻撃を受け、10年間降伏せずに闘い続けた本願寺でしたが、時は信長に味方し、正親町天皇の仲介を受け、和睦を受け入れたのでした。
まあ、石山本願寺が信長に喧嘩を売った時は、信長の周りは敵だらけでしたから。
しかし、信長は、逆境にめげず、敵対勢力を一つずつ潰して、最後は石山本願寺だけになっちゃった。それで、このまま続けても滅亡するだけだと悟った顕如が天皇の言葉もあり、和睦についたんですな。信長も、石山(後の大阪)が欲しかったため、顕如の退去を認めたわけですよ!
ところが、これが原因で親子げんかが始まっちゃんですな。
「もう戦うのは止めた」という顕如に、「最後まで戦わなくてどうする」という長男の教如がぶつかって分裂しちゃったんですよ。
どうやら、合戦末期になると、顕如を中心に徹底抗戦の構えで団結していた教団も、信長との講和を支持する勢力(穏健派)と、徹底抗戦を主張する勢力(強硬派)とに分裂していったようです。この教団の内部分裂が、東西分派の遠因となっていますね。
顕如と三男の准如は、石山本願寺から紀伊鷺森(鷺森本願寺)へ退隠しました。しかし、抗戦派の教如は、顕如から義絶されちゃうんですが、それでもなお「石山本願寺」に籠城したんです。
しかし、天正8年年8月2日、近衛前久の退去説得に応じた教如は、「石山本願寺」を信長に明け渡しました。その直後に「石山本願寺」に火が放たれ焼け野原となってしまいます。
退去に応じただけで強硬姿勢を緩めぬ教如は、その後も強硬派への支持を募っています。根性あるな~~!
本願寺、京都へ移転
その後、教如は顕如より義絶を赦免され、顕如と共に住しています。
それから、顕如らは、豊臣秀吉の寺地寄進を得て、大坂の天満(てんま)に移ります(大坂天満本願寺)。そして、天正19年(1591年)、豊臣秀吉から京都へ再び寺地の寄進を受け、翌年「本願寺」が完成するんです。
ところが、文禄元年(1592年)11月24日、顕如が死亡すると教如が本願寺を継承したのはいいんですが、石山合戦で籠城した元強硬派を側近に置き、顕如と共に鷺森に退去した元穏健派は重用しなかったため、教団内の対立に発展してしまいます。まあ、気心知れた仲間で脇を固めたいのはわかりますがね~。
これに対し、穏健派と顕如の室如春尼(教如の実母)は、顕如が書いた「留守職譲状」を秀吉に示して、遺言に従い三男の准如に継職させるよう直訴します。権力者に泣きついたわけですな。
秀吉も思うところがあって、穏健派の味方となって、10年後に弟の准如に本願寺宗主を譲るよう命令するんです。教如はこの命令に従おうとしますが、周辺の強硬派坊官たちが、秀吉に異義を申し立て、譲り状の真贋を言い立てたため、秀吉の怒りを買い、「即刻、クビだ!」となってしまいます。
時の権力者に表立って逆らえば、そうなっちゃいますよね。これにより、准如が本願寺宗主を継承し、第十二世となる事が決定しました。
本願寺分立
しかし、教如は全く諦めません!引退させられた後も、精力的に布教活動にいそしみ、本願寺を名乗って文書の発給や新しい末寺の創建を行っているんです。
秀吉が死亡すると、関ヶ原の戦い後、かねてから家康によしみを通じていた教如は家康にさらに接近します。
家康も、それなりの思惑があったのでしょうが、慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に家康から、「本願寺」のすぐ東の烏丸六条に四町四方の寺領が寄進され、教如はここを本拠とするわけです。
「本願寺の分立」により本願寺教団も、「准如を十二世宗主とする本願寺教団」(現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代宗主とする本願寺教団」(現在の真宗大谷派)とに分裂するんです。
西本願寺と東本願寺の違いを細かく見ていこう
さて、それでは、西本願寺と東本願寺の違いを細かく見ていきましょう。
項目 | 西本願寺 | 東本願寺 |
---|---|---|
正式名称 | 龍谷山 本願寺 | 真宗本廟(しんしゅうほんびょう) |
本山 | 京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院 | 京都府京都市下京区常葉町にある真宗大谷派の本山寺院 |
山号 | 龍谷山(りゅうこくざん) | ない |
本尊 | 阿弥陀如来 | 阿弥陀如来 |
愛称 | お西さん | お東、お東さん |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 | 浄土真宗真宗大谷派 |
お経 | 「なもあみだぶつ」 | 「なむあみだぶつ」 |
お焼香の本数 | 1本 | 2本 |
仏壇 | 柱が金箔 | 柱が黒塗り |
仏具 | 黒系 | 金色 |
ロウソク立ての形 | 銅に漆塗りの宣徳製のもの | 亀の上に鶴が乗った形(鶴亀火立)のもの |
数珠のかけ方 | 房の部分を上にして持ち、房は左手側に垂らす | 房が下に来るようにして、親指で上を軽く押さえる |
正式名称は、西本願寺が龍谷山 本願寺、東本願寺が真宗本廟(しんしゅうほんびょう)と言うんです。西本願寺と東本願寺は通称なんですよ。へえ、初めて知りました。勉強になりましたね~。
西本願寺に山号はありますが、東本願寺にはないんですな。
本尊は、宗派が一緒なので、「阿弥陀如来」で一致しています。
愛称もあって、京都市民から、ここに書かれている名称で親しまれているそうです。
面白いのは、お経が西本願寺と東本願寺では違っているところですね。「なもあみだぶつ」と「なむあみだぶつ」で1文字だけ異なっています。
そういえば、従兄弟の家のお寺(西岸寺)の住職さんは、「なもあみだぶつ」と言っているのを思い出しました。調べてみたら、やっぱり浄土真宗でした。つうことは、浄土真宗本願寺派なんですな!(佐島の西岸寺)
その他、仏壇や、花立て、香炉、ロウソク立てなどの仏具に違いがあるんですね。意識してそうしたんですかね。ウーム、わからんぞ!
ロウソク立ての形も特殊でそれぞれ異なっていますね。さらには、数珠のかけ方も変えているんですね~。お寺もなかなか大変だなあ。
最後に
西本願寺と東本願寺、同じような名前が何故あるのか見てきました。
分裂したのは、遠く、織田信長との石山合戦に繋がってきましたね。
親子喧嘩が発展して、義絶されてもくじけず、その後、再び、父と共に働いた教如は凄いですね。
豊臣秀吉や徳川家康など、その時々の権力者の名前が出てくるのには驚きでした。歴史は面白いな~!
西本願寺と東本願寺の違いを細かく見てみましたが、面白かったですね。お経が1文字違っていて、従兄弟のお寺の住職のお経を思い出しましたよ。
その他、仏壇、仏具にも違いを出しているのは興味深くなかったでしょうか?
※気づけば「違い」の記事も増えてきました
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