聖徳太子の別名は?本名と12もある呼び名を全部紹介するよ
若い方は知らないと思いますが、昔の一万円札に印刷されていた肖像画は聖徳太子だったんです。
聖徳太子についてはご存知ですよね。私も、むかーしむかし、学校で習いました。
今回は、この聖徳太子の別名について書いていきます。
いろいろと情報が錯綜する世の中ですし、聖徳太子の別名についてご存知の方もいらっしゃると思いますが、いざ、見てみたら、思いのほかにたくさんあるので驚きました。
そして、その由来についても、掘り下げられるところは掘り下げていきますので、乞うご期待!
その他に分かった驚きの事実もお知らせしますので、是非、お立ち寄りをお願いします。
聖徳太子の別名
別名を見に行く前に、聖徳太子について少々知っておきましょう。
聖徳太子(しょうとくたいし、574年2月7日-622年4月8日)は、飛鳥時代の皇族で、 用明天皇の第二皇子です。母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。『上宮聖徳法王帝説』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいると言われています。
没年については、『日本書紀』では629年2月5日としています。
冠位十二階、憲法十七条の制定などにより内政を整備し、遣隋使を派遣し て進んだ大陸文化の導入にも努めた偉大な政治家と言われています。
そんな聖徳太子の別名がこちらです。
聖徳太子の別名は?
厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多い
アレレ!「本名は厩戸」と書いてありますね。どういうことでしょう。聖徳太子は本名ではないんですか?ちょっと、よく見てみないといけないですね。
すると、wikiで次の記述を発見しました!
「聖徳太子」という名称は死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録』『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことが、うかがえる。
引用 wiki 聖徳太子
ここからわかるのは、聖徳太子という名は、平安時代から広く用いられ一般的な呼称となりましたが、後世につけられた尊称(追号)なんですね!
ですから、聖徳太子の別名という言い方自体が間違いなんですな!
別名はないのか?
聖徳太子が尊称であるなら、上記で言った本名の「厩戸」の別名はないのでしょうか?それがあるんですよ。しかもたくさん。
厩戸(聖徳太子)の別名は?
- 上宮王(かみつみやおう)
- 豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)
- 上宮之厩戸豊聡耳命:『古事記』(和銅5年、712年)10人の話を同時に聞いたという伝説によるもの
- 厩戸豊聡耳皇子(うまやととよとみみのみこ):『日本書紀』(養老4年、720年)推古天皇紀
- 法主王:『日本書紀』(養老4年、720年)
- 豊聡耳聖徳:『日本書紀』(養老4年、720年)用明天皇紀
- 豊聡耳法大王:『日本書紀』(養老4年、720年)用明天皇紀
- 上宮太子聖徳皇:顕真の著『聖徳太子伝私記』に引用される「法起寺塔露盤銘」(慶雲3年・706年という)
- 厩戸豊聰耳聖徳法王:『上宮聖徳法王帝説』
- 上宮厩戸
- 厩戸皇太子
- 多利思比孤(たりしひこ):『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される倭国王である。
参考:wiki 聖徳太子
な、何と12もの別名が出てきました。
聖徳太子の本名
聖徳太子の別名を挙げましたが、本名について検討が足りていないので、少し見ていきたいと思います。
聖徳太子の本名は?
厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)など本名は厩戸と言われることも多いのですが、この名前、古代の文献には見られないそうです。
朱書きした内容を素直に読むと、本名は「厩戸」と言われていますが、それを証明する文書が残っていないと言ってるんですね。
そして、上記に挙げたいくつかの別名が出てきてるんです。
- 和銅5年(712年)『古事記』:「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」
- 養老4年(720年)『日本書紀』推古天皇紀:「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」
- 養老4年(720年)『日本書紀』用明天皇紀:「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」
じゃ、何故、「厩戸王」が受け入れられたのかについては、wikiに載っていました。
「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった。
引用 wiki 聖徳太子
学者さんが勝手に本名としたのが原因なんですか。
ただ、厩戸にちなむ記録はいくつかあるようです。
- 『日本書紀』推古天皇元年四月条:厩戸前にて出生したという記述あり
- 『上宮聖徳法王帝説』では厩戸を出たところで生まれたと記述されている
- 古市晃:舒明天皇期の王宮であった厩坂宮が由来である
- 渡里恒信:養育を行った額田部湯坐連が馬に深い関係を持っていたことに由来する
- 井上薫:厩戸という名の氏族に養育されたのではないかとしているが、同名の氏族が存在したという記録はない
古市晃 神戸大学院人文学研究科 社会動態専攻。教授。史学関係
渡里恒信 博士(文学・立命館大学)
井上薫 日本の歴史学者、大阪大学名誉教授。文学博士(東京大学、1962年)。
参考:wiki 聖徳太子
聖徳太子はいない?
この話、結構有名ですよね。本なんかも出版されているようです。
聖徳太子は、上述したように「冠位十二階、憲法十七条の制定などにより内政を整備し、遣隋使を派遣し て進んだ大陸文化の導入にも努めた偉大な政治家」と言われますが、実は、その行ったとされる数々の輝かし い事績を歴史的事実と確認できる史料は皆無なんだそうです。
社会科では歴史研究の進展に合わせ、小中学校で計7つの用語の表記を変える。「聖徳太子」は小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、中学校は「厩戸王(聖徳太子)」に変更。小学校では人物に親しみ、中学校では史実を重視する観点から表記を入れ替えている。聖徳太子は死後につけられた称号で、近年の研究では厩戸王に当たる可能性が高いとされている。
引用 変わる歴史用語、聖徳太子→厩戸王 学習指導要領案
一般の学術書なども、聖徳太子ではなく、「厩戸王」と記載する傾向のようです。
「聖徳太子」の研究は、聖徳太子自体が、信仰の対象であり、史料の記述も信仰と実際の事績が混在しているため、歴史的な「謎」につつまれた部分が多いのも事実です。しかし上記のような研究成果を反映し、高等学校の教科書だけでなく、一般の学術書にも「厩戸王」と記載する傾向となっています。
引用 「聖徳太子」は、なぜ「聖徳太子(厩戸王)」と表記されるようになったのですか。
最後に
聖徳太子の別名を調べてみました。
すると、いきなり、聖徳太子は尊称だという情報にぶち当たりました。ですから、「聖徳太子の別名は」と聞くのが誤りだったんですねェ~。
別名を書こうとしたら、本名は厩戸って出てきて方針変更。それから、別名を捜したら、たくさん出てきましたね。読み方の分からん別名が多かったです。
それで、最後に、本名について追いかけましたが、古代の文献がなく、学者がエビデンスもなく本に書いたら広まっちゃった手落ちでした。
※気づけば「別名」の記事も増えてきました
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