アントニウスとクレオパトラの関係は?その裏に垣間見える互いの打算
数か月前、エジプトの女王であったクレオパトラが美人であるかどうかの記事を書いています。
このクレオパトラ、数奇な運命をたどった女性であり、その時代の強国であるローマの英雄カエサル、アントニウスとの関係がよく知られています。
美人だったかはともかく、聡明な女性だったと思われます。
クレオパトラが、英雄カエサル亡き後、アントニウスに対して、どのように関係を作っていったのか、そして、何故、悲劇的な最期を遂げることになったのか非常に気になりました。
この記事では、古代ローマの英雄カエサルの次代の将軍であるアントニウスとプトレマイオス朝の女王クレオパトラが、どのような関係だったかを追いかけてみました。
どうか、最後まで、記事をご覧ください。
アントニウスとクレオパトラの関係
ローマのアントニウスとエジプト女王クレオパトラの関係は、どのようなものだったのか、ちょっと長いんですが、歴史を追って見ていきましょう。
アントニウスとクレオパトラの関係
アントニウスとクレオパトラの関係は長きに渡るので、年代別に起きたことを順にまとめました。
子供を設けていたカエサル、共同統治者であったプトレマイオス14世との死別後、クレオパトラはアントニウスと出会う(紀元前43年:クレオパトラ26歳、アントニウス40歳)
アントニウスがクレオパトラをキリキアのタルソスに召喚したことで両者は出会う。ここから、全ての出来事が始まる。
クレオパトラはアントニウスの子産む(紀元前40年:クレオパトラ29歳、アントニウス43歳)
クレオパトラはアントニウスの子である男女の双子を産む
クレオパトラ、キリキアを与えられる(紀元前37年冬:クレオパトラ32歳、アントニウス46歳)
アントニウスのパルティア遠征のための再編作業の一環として、キリキアの木材で、アントニウスの艦隊を増強・輸送船によるエジプトからシリアへの輸送に貢献。
アントニウス、パルティア遠征と惨敗(紀元前36年:クレオパトラ33歳、アントニウス47歳)
アントニウスはパルティアに遠征しますが惨敗を喫する。領土を全く取れず、軍団鷲旗、捕虜の奪還もできなかったばかりか、敵に新たな戦勝記念品を送る形になってしまった。
アントニウス、クレオパトラにパルティア戦の傷を癒す(紀元前35年:クレオパトラ34歳、アントニウス48歳)
アントニウスは、アレクサンドリアないしアンティオキアで、1年の大半をクレオパトラと共に過ごす。
クレオパトラを正式にエジプトの女王とする宣言を実施(紀元前34年:クレオパトラ35歳、アントニウス49歳)
アントニウスはアレクサンドリアでクレオパトラを正式にエジプトの女王とする宣言を行い、カエサリオンに「諸王の王」という称号を与えた。
アントニウスとオクタウィアヌスの対立が激化(紀元前33年~32年::クレオパトラ36~37歳、アントニウス50~51歳)
オクタウィアヌスは、クレオパトラをアントニウスを愛人の言うがままに動き惰弱な男に貶めた危険な人物だと喧伝して、ローマの支持を得る。
アクティウムの海戦(紀元前31年9月2日:クレオパトラ38歳、アントニウス52歳)
アクティウムの海戦でオクタウィアヌスの軍に敗れたクレオパトラとアントニウスはアレクサンドリアへ撤退。
アントニウス自刃・クレオパトラ自殺(紀元前30年8月1日:クレオパトラ39歳、アントニウス53歳)
アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き自らも自刃。約10日後にクレオパトラも自殺
アントニウスとクレオパトラの出会いから、アクティウムの海戦でライバルのオクタウィアヌスの軍に敗れ、アントニウスの自刃、クレオパトラの自殺までを並べました。
出会いでの両者の思惑や、アントニウスのクレオパトラへの優遇の裏に隠れた考え方など詳細を次の章で述べています。
ごゆっくりご覧になってください。
クレオパトラは美人だったのかという議論は永遠のテーマのようです。
アントニウスとクレオパトラの関係を詳しく確認
ここからは、年代と共に、アントニウスとクレオパトラの関係を詳しく確認していきましょう。
アントニウスとクレオパトラの出会い
アントニウスとクレオパトラの出会いから、クレオパトラの絶頂期までを見ておきましょう。
- 紀元前44年 カエサル暗殺とプトレマイオス14世死去
- 3月15日カエサル暗殺。クレオパトラは、子供までもうけて得た最大の守護者を失くします。
8月末配偶者でもあり弟でもあるプトレマイオス14世死去。一説には、クレオパトラの仕業(毒殺)であっても不思議ではないとのこと。
プトレマイオス14世の死去
プトレマイオス14世は成長してきており(当時15歳ないし16歳)が、クレオパトラの統治の邪魔になって来ているため。
- 紀元前43年初頭
- エジプト駐屯の軍団がローマの要請によりシリアに退去。
- 紀元前41年 アントニウスとクレオパトラの出会い
- アントニウスはクレオパトラをキリキアのタルソスに召喚します。エジプトは、アントニウスの敵であったカッシウスを支援していたからです。
この時、両者は上述した思惑を持っていました。
特に、クレオパトラは、ここでローマの有力者を味方につけないと、自身の王権がゼロになってしまう危険性があったのです。
この会談では、カリスマ性を見せつけたり、エジプトの富を前面に押し出すなど、クレオパトラがあらゆる手管を使ってアントニウスを篭絡します。
アントニウスも、エジプトを安定させるには、クレオパトラを手に入れることだと感じたようです。
こんなこともあり、このふたりは、たちまち愛し合うようになりました。
紀元前41~40年にかけての冬、アントニウスはエジプトでクレオパトラと過ごしました。
これにより、両者の思惑は共に実現します。
アントニウスは、エジプトの資源を利用できるようになり、クレオパトラは、自身と息子の統治が再確認されたのです。
お互い愛し合うようになりましたが、その裏には、互いの打算が強く働いていたんですね!
- 紀元前40年
- クレオパトラはアントニウスの子である男女の双子を産んでいます。
男の子はアレクサンドロス、女の子はクレオパトラと名づけられます。
9月に、アントニウスとオクタウィアヌスが帝国を二分するブルンディシウム協定が結ばれます。
この年の初め、パルティア人がシリアに侵入しています。
- 紀元前37年冬
- アントニウスのパルティア遠征のための再編作業の一環として、クレオパトラに、キプロス、クレタ、キュレナイカのエジプトに近い部分、キリキアとシリアの一部分が与えられました。
キリキアは木材が豊富で、エジプトの造船に役立ち、アントニウスの艦隊を増強すると共に、輸送船によるエジプトからシリアへの輸送に貢献します。
アントニウスの没落とクレオパトラの最後
アントニウスがパルティアに遠征して惨敗を遂げ、没落の兆しが見え始めます。
- 紀元前36年 アントニウスのパルティア遠征と惨敗
アントニウスはパルティアに遠征します。
狙いは、カエサルの果たせなかったパルティア征服を成し遂げることで、競争者であるオクタウィアヌスを圧倒することでした。
しかし、アントニウスは惨敗を喫しました。
領土を全く取れず、軍団鷲旗、捕虜の奪還もできなかったばかりか、敵に新たな戦勝記念品を送る形になってしまったのです。
アントニウスの人気は未だに高かったものの、ローマ貴族として評価されるべき最も重要な部分即ち外敵を打破るという点で失敗しました!
- 紀元前35年 アントニウス、クレオパトラにパルティア戦の傷を癒す
- この年の春、アントニウスの妻であるオクタウィアがアテナイに来ています。
しかし、この妻は、パルティア遠征の失敗を思い出させる存在でした。
アントニウスは妻にローマに帰るよう手紙を出し、オクタウィアはそれに従います。
アントニウスは、アレクサンドリアないしアンティオキアで、1年の大半をクレオパトラと共に過ごしました。
- 紀元前34年
- アントニウスはローマを裏切ったアルメニアの王を捕らえ、パルティア戦の鬱憤を晴らします。
アントニウスはアレクサンドリアでクレオパトラを正式にエジプトの女王とする宣言を行い、カエサリオンに「諸王の王」という称号を与えました。
また、カエサリオンはユリウス・カエサルの正統な息子であると公認しています。
クレオパトラとの間に生まれた3人の子どもたちにも王族の称号を与え、アレクサンドロス・ヘリオスには領土と王国を約束しました。
アントニウスとオクタウィアヌスの対立が激化します。
この時代のやり方は、互いに相手の性格を非難するものです。
- 紀元前33年~32年
- ただ、オクタウィアヌスはローマにおり、アントニウスは東方にいました。東方を無難に抑えてもローマでの人気を高める材料にはならなかったのです。
オクタウィアヌスは、クレオパトラをアントニウスを愛人の言うがままに動き惰弱な男に貶めた危険な人物だと喧伝して、ローマの支持を得ます。
アントニウスが、今までクレオパトラに見せた気前良さが全て仇となってしましました。
- 紀元前31年9月2日
- アクティウムの海戦でオクタウィアヌスの軍に敗れたクレオパトラとアントニウスはアレクサンドリアへ撤退と言えば聞こえがいいんですが逃げ出します。
この際、アントニウスは味方を打ち捨てて逃げる無様なさまを見せて、仲間の支持を失ってしまいます。
- 紀元前30年8月1日
- アントニウスはクレオパトラが自殺したとの報を聞き、自らも自刃します。
アントニウスの死から約10日後にクレオパトラも自殺します。
クレオパトラはアントニウスと並べて、彼女が作ったマウソレウム(亡くなった指導者のために構築される大きく印象的な墓)に入れられました。
クレオパトラの死に関して
最後は、戦に負け、仲間に見捨てられ、すごく悲劇的なんですが、実は、クレオパトラは、ここでも復活を狙っていたようです!
どうやら、クレオパトラは、自分の運命をアントニウスから切り離そうと計画していたようです。
そのため、アントニウスが自刃するよう仕向けたんですって!怖い女だ!
クレオパトラの死が、アントニウスのそれより10日遅いのは、「アントニウスと死を共にする」つもりはなかったからです。
クレオパトラは、オクタウィアヌスに自らの富を見せつけることで権力維持を図ることを夢想していたようです。
しかし、オクタウィアヌスには、その気が全くありませんでした。
クレオパトラも、寄る年波には勝てなかったのでしょうか?
それを悟ったことで、クレオパトラは自殺を選択したんです!
クレオパトラは、カエサル、アントニウスと権力のあるローマ人に身を任せ、女王の座を守り通しました。
女性は強いけど、おっかないですな。
しかし、最後はローマの敵とされ、オクタウィヌアスを取り込もうとして失敗し、失意のまま死亡したんですね。
最後に
アントニウスとクレオパトラの関係を詳しく見てきました。
アントニウスがクレオパトラを厚遇していたのは、エジプトの富を活用することもあったのでしょうが、彼女を自分のモノにしたかったという想いが一番だったように思います。
クレオパトラも英雄カエサルに身を任せたのにもかかわらず、暗殺されてしまうという突発事故から、次代の権力者を捕まえたことは非常に大きかったでしょう。
しかし、最後は、アントニウスはライバルに負けてしまいます。そこで、クレオパトラが採った策は「女は怖い」を地で行くものでした。
結局、その次の権力者はクレオパトラを相手にせず、彼女も表舞台を去って行くしかなかったんですね。
このようなクレオパトラのせいなのか、現代になってもウィキペディアで怪現象がみられるようです。
※雑談の部屋は物凄い大所帯です
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