石川数正の最後・死因とは?高名だが変節者の記録は歴史に残らない

2024年5月12日

今回は、今まで取り扱ったことのない題材で記事を書きます。

それは、ちょっと重いテーマである「人間の最後・死因」です。

どんな人間であっても、必ず最後に訪れるのは「死」ですね。

生きとし生けるもののなら、この「死」から逃れることは出来ません。歴史上、どんな英雄も亡くなっています。

その最後、死因はどんなものだったかを追いかけてみます。

トップで登場するのは石川数正です。誰?ッと仰る方も多々あると思いますが、彼は、徳川家康の重臣でありながら、人生の後半に豊臣秀吉に転身した戦国時代から安土・桃山時代の武将です。

この数奇な人生を送った石川数正の最後と、その死因がどうだったかを追いかけてみました。

どうか、最後まで、ご一緒にご覧ください。

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石川数正の最後・死因とは?

何といっても「石川数正の最後・死因」から述べるのが筋ですね!

石川数正の最後・死因

それでは、今回の主題である石川数正の「最後・死因」を見ていきます。

実は、石川数正の没年は諸説あるんです。

  • 文禄2年(1593年)10月23日に京都で死去とする説
  • 文禄元年(1592年)12月14日に京都の七条河原で葬礼が行われているため、それ以前に死去という説

死因ですが、「病気」で亡くなったようですが、これまたはっきりしないんです。

この時代の中で、割と名前が知られている人にしては、しっかりした資料が残っていないためと思います。

少し、ネットから掘り出した資料を見ていただきましょう。

死因 病死。文禄2年(1593年)に死去したとある。享年は不明である。
数正の死去を「文禄二年卒」と書いているだけで、月日については全く触れていない。さらに、享年すら触れてないので、生年すらわからない状態である。これについては後年に石川家が改易されて数正に関する史料が無くなったためとも考えられている。

引用 石川数正|Enpedia

ここにありますように、「後年に石川家が改易されて数正に関する史料が無くなったため」イコール石川家が無くなったため、資料が四散してしまった影響と考えられます。

生年もはっきりしないんですなあ!

以下に、死因を書いてあるサイトを3つ紹介します。

朝鮮出兵に向けて九州に赴き、石川数正は肥前国・名護屋城で亡くなりました。1592年12月、死因は病気。60歳でした。1592年に京・七条河原で葬儀が行われていますが、没年には諸説あります。

引用 なぜか家康から出奔して秀吉にキャリアチェンジした|戦国武将の話

ここでは、「肥前国・名護屋城」で亡くなったとあります。

死因は病気となっています。

ただ、ここにも、没年には諸説あると言っていますね。

文禄元(1592)年に肥前名護屋に出陣。原因不明の病で、同年没しました。

引用 石川数正とは?家康・秀吉に仕えた知将、生涯や出奔事件も3分で解説|和楽web

こちらでは、肥前名護屋に出陣とありますが、城中で亡くなったとは書いていません。

死因は「原因不明の病」とあります。

この記事では、没年を文禄元(1592)年と言い切っています。

文禄元年(1592)3月、朝鮮出兵にも参戦し、肥前・名護屋に出陣しています。
しかしほどなく、原因不明の病にて60歳の生涯を閉じました。

引用 石川数正【いしかわかずまさ】その後は?裏切りの後はどう …|ドラマネタバレ

こちらの記事も、肥前名護屋に出陣とありますが、どこで亡くなったかは明確にされていません。

死因は、前記時と同じく「原因不明の病」とあります。

この記事では、没年も明確ではないですね。

その他に死因を書いてある記事を探しましたが、見つけることが出来ませんでした。

それらの記事をざっと紹介します。

まずは、肥前・名護屋で死亡したと言っている記事5つです。

文禄元年(1592)、肥前国(現在の長崎県と佐賀県)の名護屋に出陣し、同地で亡くなりました。数正の葬儀は、京都の七条河原にて行なわれたそうです。

引用 家康の重臣・石川数正の出奔|サライ.jp

数正は1593年、61歳で肥前にて、その生涯を閉じました。

引用 「石川数正」全てを抱え家康の下を去る53歳の決断|東洋経済オンライン

文禄2年(1592年)の「文禄の役」(朝鮮出兵)に際し、500騎を率いて肥前国(現在の佐賀県と長崎県に相当)の「名護屋」に出陣するも、陣中にて死去したとされています。

引用 「石川数正」の死に際とは?晩年や最期(死因)など分かりやすく解釈

秀吉の朝鮮出兵に際し、肥前名護屋に出陣するが、その地で没したとされている。

引用 NHK大河ドラマの準主役なのに…|PRESIDENT.Online

1592年、文禄の役(朝鮮出兵)では肥前国へ500騎を率いて肥前名護屋に出陣したが、その陣中で死没。享年61。
詳しい没地や命日は不明だが、1592年12月14日に京都七条河原で葬儀が行われている。

引用 石川数正~徳川家康の家老職を捨て、豊臣秀吉に寝返った智将

5つの記事とも、死因については触れていません。

また、場所ですが、全ての記事で肥前の国と言っています。2番目の記事以外には「名護屋」という名称も出ていますね。

没年は、1592年が3件、1593年が1件、記載なし1件と別れました。

次の2つの記事は、死亡の場所さえ出ていません。

没年については諸説あり、文禄2年(1593年)10月23日に京都で死去とする説や、文禄元年(1592年)12月14日に京都の七条河原で葬礼が行われているため、それ以前に死去という説もある

引用 wiki石川数正

文禄2年(1593年)に亡くなったとされていますが、その際の詳細はよくわかりません。10万石の大名の死について、定説がないのは不思議な気がしますが……。

引用 『どうする家康』石川数正の「裏切り」は秀吉が仕組んだものだった?|日韓サイゾー

没年については、両記事とも、はっきりしないと言っています。

2番目の記事では定説がないのは不思議と言っています。

確かに不思議なんですが、最初に述べた通り、家が改易されたため資料が無くなってしまったからでしょう。

記事を読んでいた中で、知らないというかピンと来ない情報もあるかもしれません。

そうしたところは、次の来歴を知ることで見えてきたりしますので、ここからは石川数正の生涯を振り返っていきたいと思います。


石川数正の来歴

石川数正が徳川家康にとって、どの位重要な家臣だったか、いつ頃、徳川家を退散したのかを、誕生から辿って参ります。

誕生

天文2年(1533年)三河国で誕生。石川右馬允康正(異説に石川右近正勝)の子とされる。

外交の才

数正は、外交能力に優れていました。
松平元康(家康)が独立した際、数正は今川氏真と交渉し、今川氏の人質であった元康の正室・築山殿と嫡男・信康を取り戻しています。
そして、織田信長との清洲同盟成立時にも大きな貢献が見られます。

家康への献身

石川数正は家康の幼少から、身をささげて奉公していました。
徳川家康が幼少の頃、今川家の人質として駿府に暮らした時代、近侍として仕えています。
複数の家臣が家康に背いた三河一向一揆では、父・康正が一揆側につきましたが、数正は浄土宗に改宗して家康に尽くしています。

家康の信任

徳川家康も石川数正を信頼して重要な仕事を任せています。
一向一揆後、家康から家老に任じられ、重用されるようになります。
家康の長男である信康が元服するとその後見人に指名されます。
また、叔父の石川家成が掛川に転出すると、叔父に代わって西三河の旗頭に就任します。

数正出奔

嫡男信康が織田信長の命により切腹すると、数正は岡崎城代に任命されます。
本能寺の変で織田信長が志半ばで倒れ、羽柴秀吉が台頭すると、数正は秀吉との交渉を担当します。
天正13年(1585年)11月13日、石川数正は、家康の下から秀吉の下へ出奔しました。現在に至っても、はっきりした理由は分かっていません。
そして、石川数正は、豊臣秀吉から河内国内で8万石を与えられ、秀吉の家臣として仕えることになりました。

見てきたように、石川数正は、徳川家康の信任が厚く、上述した外交の才以外にも、姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い等、多くの合戦に出陣して数々の武功を挙げているんです。

どうも、秀吉の実力を知って、今の家康ではかなわないため、捲土重来を願って和睦を進言したにもかかわらず、臆病者と罵られ、果ては命まで狙われたなんて話もあるので、石川数正もかわいそうですな。

あの時代、うかうかしていると、本当に殺されてしまうので、現代と違って、自分の身は自分で守らねばならなかったのですね!

戦国から安土桃山時代の武将の死因

記事を終わる前に、戦国から安土桃山時代の武将の死因を一覧に並べておきます。

武将の名前死 因年齢詳細
明智光秀自害54歳落ち武者狩りの竹やりで重傷を負ったのち自害
上杉謙信病死49歳脳卒中が有名だが、不慮の虫気なんて説も
織田信長自害49歳本能寺の変にて
加藤清正不明50歳梅毒や癩病、毒殺説まで様々
真田幸村討死49歳大坂夏の陣で散る
武田信玄病死51歳胃がん、労咳(肺結核)、肺炎等の諸説あり
徳川家康病死75歳胃がんが有力な説
豊臣秀吉病死62歳色々な説があり、脳梅毒、大腸癌、痢病(赤痢・疫痢の類)等が代表的な病
北条早雲老衰88歳、64歳死亡年齢には2説あり
毛利元就老衰75歳食道がん、酒毒なんて説もある

高名な武将を10人並べましたが、病死4名、老衰が2名、自害2名、討死1名、不明1名という結果になりました。

病死と老衰で過半数を越えました。まあ、高名な武将なので、長生きしているという考え方もあり得ますね。

また、病死の場合、記録があっても特定できない例が多いですね。徳川家康のみ、「胃がん」一択で、他の武将は複数の病名が疑われています。

老衰の2名は、一代で国を興した稀有の人物です。

北条家は5代で断絶しましたが、毛利家は明治維新まで粘りました。

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戦国時代に「勝虫」として縁起が良いと捉えられた虫がいます。トンボとムカデです。

最後に

石川数正の最後、死因を見てきました。

歴史好きであれば、石川数正をご存知でしょうが、そうでない方は誰ッとなってしまうと思い、その来歴から見ていただきました。

主題である石川数正の最後、死因なんですが、病死らしいのではいう結論で、具体的な病名はわからずじまいです。

さらには、死亡時の年齢もはっきりしていなかったのは少々驚きですね。

やはり、あの時代の方は資料が四散すると、その当たりが不明になっちゃうんですね。

※「雑談の部屋」の記事はすごい大所帯です!

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この記事を書いた人

60爺

60路を越え、RaspberryPi と出会い、その関係でブログ開設(2017/2~)となりました。始めてみると、コツコツやるのが性に合ってしまい、漢字の記事から家の補修・将棋・windows10関係・別名・言い方などジャンルを拡大して今に至ってます。まだまだ、元気なので新たな話題を見つけて皆様に提供できればと思っています。「プロフィールはこちら

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